ドラマ『きのう何食べた?』の好きなシーンがあります。
史郎が一人で食事をするとき、ものすごく適当に済ませてしまう場面。
いつもは予算の範囲内で栄養がしっかり摂れる献立を用意する史郎。一緒に生活をしているケンジの健康を考えながら、楽しそうに調理しているシーンが多いドラマ。
そんな中で、とある夜はケンジが不在ということもあり、史郎はひとりで夕飯を食べるのです。
一人だったら、わざわざちゃんと料理をすることもないということで、すごく簡単なもので済ませます。
そんな史郎がふと、「ケンジの存在ってつくづく健康に良いぜ」と呟く。

この言葉、夫婦というものをすごくよく表しているなと感じました。
「好きな人と暮らす」「好きな人のために料理をする幸せ」があって健康という意味だけではないように捉えたからです。
ケンジと一緒に暮らしていることで、史郎の生活そのものが変わっている。
一人だったらしないことをするようになったり、一人だったら持たない習慣ができたりする。
一緒に暮らすことによって、自分の生活に何かがもたらされている。

そんな夫婦の側面を考えるきっかけになったのが、『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』という本でした。

この本の中に、夫婦がいろいろあっても、ともに暮らし続けるのは、必ずしも愛情からだけではない、という話が出てきます。
夫婦って、考えてみればかなり面倒な共同生活。
家事をどうするか。お金をどう使うか。子どものことをどうするか。休日をどう過ごすか。
一人なら自分だけで決められることを、いちいち二人で調整しなければならない。
それでも一緒に暮らしているうちに、その面倒な共同生活によって、自分に何がもたらされているのかが見えてくる。
『きのう何食べた?』の史郎にとっての「ケンジの存在ってつくづく健康に良いぜ」も、まさにそういうことなのだと思います。
夫婦は、「この人が好きだから」という気持ちだけでは、続けられる関係ではありません。
好きとか、支え合うとか、それは根底にあるかもしれないけれど、何年も夫婦を続けていると、きれいごとだけでは難しい。
でも、子育てにしても経済的なことにしても、一人で暮らすより生活がうまく回ること。
一緒にいることで自分自身にもたらされるもの。
そういうものが全部混ざって、「この人と一緒にいたい」になっているのかもしれないなぁと。
ドライな考え方かもしれないけれど、今後も長く関係を良好に保っていこうと思うと、少し引いた目線で夫婦を捉えることが必要なのではないかと思うのです。

だからこそ、夫婦喧嘩についても、最近は少し違う考え方ができるようになってきました。
こらまでは、喧嘩をするとどうしても決着をつけたくなる。白黒はっきりつけたい性格も相まって、些細なぶつかりにも原因を突き詰めていたのです。
どっちが悪いのか。どっちが正しいのか。どちらが謝るべきなのか。
でも、夫婦の問題って、そんなにきれいに白黒をつけられるものばかりではありません。
お互いに言い分もあるし、どちらか一方が完全に悪いわけではないこともある。
そもそも、今は答えが出ないことだってあります。
だったら、全部に決着をつけなくてもいいんじゃないかと。
「わたしはまだ納得していないし、相手の言っていることもよくわからない」「でも、これ以上話しても今は仕方がない」
そうやって、いったん置いておく。

以前、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる――答えを急がず立ち止まる力』という本を読みました。
ネガティヴ・ケイパビリティとは、簡単に答えの出ないことに対して、すぐに結論を出そうとせず、わからなさを抱えたまま持ち堪える力。
「答えを急がず立ち止まる力」とも言えます。(ちなみにこの言葉、ドラマ「しあわせは食べて寝て待て」にも出てきてハッとなりました)
このネガティヴ・ケイパビリティって、夫婦にも必要な力なんじゃないかと思いました。
夫婦だからといって、相手のことをすべて理解できるわけではない。
同じ出来事を見ても、感じ方は違う。
だから、「どちらが正しいか」という答えを出すことよりも、「よくわからないけれど、今はここに置いておこう」と保留にして寝かせておくことができるほうが、長く一緒に暮らしていくためには大切なこともあるのかもしれない。
ひとこと言いたい!っていう時もあるけれど、適切な言い方が思い浮かばないときは無理に伝えず、タイミングを待つ。
相手を傷つけない伝え方が思い浮かぶまで待ってみたり、そもそも時間の経過とともに伝える必要性自体を感じなくなることもあります。
もちろん、何でも曖昧にすればいいわけではありません。
傷つけられたことを我慢し続ける必要もないし、話し合わなければならない問題もあります。
でも、夫婦関係に起こるすべての出来事に、判決を出す必要はないのでは。
喧嘩のたびに、「結局どっちが悪かったの?」と決着をつけなくてもいい。
それよりも、究極的には、「いろいろあるけれど、この人と一緒にいたいのか」を考えてみる。
その「一緒にいたい」という気持ちも、純度100%の愛情じゃなくていい。
先に書いたように、「好きだから」だけじゃなくていい。
子どものこと、お金のこと、生活のこと、安心感、習慣、これまで積み重ねてきた時間。
そういう現実的で打算的なものも含めて、「それでも一緒にいたい」と思うのなら、それでいいというか。
喧嘩をしても、わからないものは、わからないまま抱えておく。
そして、次の日にはまた一緒にご飯を食べる。
そのくらいの曖昧さを持ったまま、一緒に暮らしていく。
「決着をつけない」というのは、問題から逃げることではなくて、もしかしたら、関係を続けていくためのひとつの力なのかもしれません。
先日最終回を迎えたドラマ『さよならノワール』では、「闇を飼い慣らして生きていく」という言葉が出てきました。
まさにこの「飼い慣らす」という感覚がネガティヴ・ケイパビリティなのかも。
無理に消化しようとも受け入れて納得しようともしない。その時々で感情を飼い慣らしてうまく付き合っていきたい。
そんなことを考えています。