先週の運動会を改めて振り返ってみると、自分自身の変化に気付いたことがありました。
昨年までも保育園や小学校の運動会は毎年楽しみに参加していたのですが、どこかで「子どもがみんな同じことを“させられている“」というような感覚を持ちながらの鑑賞だったように思います。
教育に関する本や音声配信に触れていると、そのほとんどが「日本は画一的な教育しかできていない」「子どもひとりひとりの自主性が尊重されていない」「もっと海外の考え方やシステムを取り入れるべき」というような論調。
日本には日本の良いところがあるような…と思いつつも、このような発信にばかり触れていると、どこか斜めから学校行事を見てしまうようになっていました。
運動会は、それが最も顕著に表れるイベント。学年みんなで、同じことを同じ時間をかけて練習する。やりたいとかやりたくないとか関係ない。
身体を動かすことが苦手な長女は、毎朝泣きながら登校するほど嫌だったようです。
そんなこともあり、そこまで子どもを画一的に同じ方向へ走らせなくても良いのでは、という不信感もありました。

でも今年は、運動会自体をすごく好意的に前向きに捉えることができ、その変化に自分自身驚きました。
理由は、以前ブログでご紹介した「それでも息子を日本の小学校に通わせたい」という本を読んだからです。

著者である山崎エマさんは、子どもの頃から各国の多様な教育を受けてきたうえで、日本の公立小学校には子どもの人格形成に関わる独特の教育システムがあると述べられています。
給食や掃除、縦割り活動など、共同生活の中での育みは世界からも注目されているとのこと。
もちろん今の在り方を手放しで全肯定するわけではないけれど、日本の教育に否定的な見解が多い中で、読んでいて少し安心できる本でした。
その本を読んでいたこともあり、今年の運動会では、むしろ「すごいな!先生も子どもたちも」と思う場面が多々あったのです。
笛の合図ひとつで、全校生徒およそ600人が移動したり整列したり、入退場する。
6年生の応援に合わせて声をひとつに同じ動きをする。
次の出番の学年は、入場門に並んで静かに座って待つ。
6歳から12歳と年齢幅も広い子どもたちを、声掛けと合図でしっかり導く先生たち。
運動会は、ほぼプログラムの予定通りの時間に終えられたのです。

たしかに子どもたちが画一的に扱われているのではという見方もある一方で、これだけの集団行動ができるって、実はすごいことなのでは!と拍手を送っていました。
一面的な見方しかできないと、すぐ批判したくなるけれど、多角的に物事を見れるようになると、安易に批判しなくなる。
この実体験は、こちらの本の内容とも繋がりました。
「三谷幸喜 創作を語る」

この本の中で、大河ドラマ「新撰組」を手掛けられていた時期のエピソードがありました。
・歴史を少し知ってる人は「このドラマの史実はおかしい」と叩く。
・ものすごく歴史を知ってる人は「いや、それもありなのかもしれない」というところまで知ってるから何も問題にしない。
・ちょっとかじってる人に限って「あそこはおかしい」と言ってくる。
なるほど。
たしかに歴史上の人物について、史実としての知識以上に、その人柄まで含めて研究している人からすると「たしかにあの人物ならそういうこともしたかもしれない」みたいになるのかも。
あらゆう可能性に耳を傾けるというか、受け入れる余白があるというか。
運動会の話に戻すと、わたしは本を読んだだけ。
決して教育について深く熟知したわけではありません。
ただ、「日本の教育は海外に比べて遅れている」という一方向以外の視点を得たことで、「色々な角度から日本の公教育を見ることができるんだ」と知ったこと、「自分の知っている面がすべてではない」と気付けたことで、「これだから日本はダメだ!」なんて、安易に批判するような気持ちは抱かなくなりました。
今の時代は「ファスト教養」なんて言葉もあるように、素人でも専門的なことを、ある程度までは簡単に短時間で調べることができます。
そしてそれを振りかざして、批判して誰かを傷つける。
わたしもネットで調べものをすることが多いですが、何事も「これがすべてではない」という視点を持って情報と向き合っていきたいと思います。