時間は本当に「使う」ものなのだろうか

松浦弥太郎さんの『自分の足音を聞きながら』を読んでいると、こんな一文に出会いました。

「時間は本当に『使う』ものなのだろうか。」

時間の賢い使い方、時間術、タイムマネジメント。

これらは普段よく見聞きするし、わたし自身も口にする言葉です。

だから、この文章を読んだ時は、「どういうこと?」と不思議な感覚になりました。

自分の時間は自分で管理するもの。だからこそ、工夫次第でいかようにも使える。そう捉えてきたからです。

限られた時間を有効に使うために、予定を立てたり、作業を効率化したりする。そうやって時間を管理することは、生活を回すうえでも大切なこと。

でも、時間=「使う」ものではないとしたら。

そもそも時間は、本当に自分で管理できるものなのだろうか、と考えてみました。

例えば、お金や物であれば、自分の手元にあるものを自分で管理できます。

家族との共同生活では、すべてが思いどおりになるわけではありませんが、自分の所有物であれば、ある程度は自分の意思で扱うことができる。

厳密に言えば、資本主義経済の元でお金は回るものだし、ものも次の人へ受け継ぐということもあります。

ただ、少なくとも自分の手元にあるうちは自分一人の意思で管理できる対象。

一方で、時間はどうか。

「自分時間」という言葉はあるけれど、時間そのものを自分の所有物にすることはできません。

予定を立てることはできても、そのとおりに進むとは限らない。誰かと待ち合わせをしたとして、相手が10分遅れて来たとしても、その10分を返してもらうことはできません。お金や道具なら弁償してもらえるケースもありますが、時間は返すことができないし、返してもらうこともできない。

家族の都合で予定が変わることもあれば、思いがけない出来事で作業が中断されることも多々あります。

自分ひとりの意思ではどうにもならないことが、時間の過ごし方には入り込んでくる。

それなのに、時間を自分の管理下に置けるものとして考えていると、思いどおりにいかなかったときに、どうしてもジレンマが生まれます。

予定していたことが終わらなかった。やろうと思っていたことができなかった。誰かの都合で、自分の計画が崩れてしまった。

時間を有効に「使おう」としているからこそ、予定どおりにいかないことがストレスになる。

自分で計画したからこそ、そのとおりに進めたい。限られた時間だから無駄にしたくない。

そんな思いが強いほど、思いどおりにならない時間を受け入れることが難しくなるのかもしれません。

そこで、時間を「使う」のではなく、「時間の中で生きる」と考えてみようかと。

時間を使うという言葉には、自分が主体となって、何かを目的のために動かすような感覚があります。

でも、時間は個人で所有しているものではありません。大袈裟に言うと、世界中の人々全員で共有しているもの。

時間の中で生きるという言葉なら、自分もまた時間の流れの中にいるひとりであるという捉え方ができそうな。

自分の予定があるように、他人にもその人の都合がある。計画どおりに進む日もあれば、思いがけないことに足を止められる日もある。

いろんな人の時間の積み重ねの中に、たまたま自分の時間が層として積み重なっているだけ。

自分の力で工夫できることはあるけれど、すべてを自分の思いどおりにすることはできない。

そう考えると、誰かに予定を阻まれたときも、計画どおりに進まなかったときも、少し違った見方ができる気がします。

だからといって、他人の都合をすべて受け入れたり、自分の時間を犠牲にしたりする必要はなくて。自分にできる工夫をすることも、自分の時間を守ることも大切。

ただ、時間を自分だけで自由に扱えるものだと思わなければ、思いどおりにならなかったことに対して、必要以上にイライラせずに済むのでは?

時間そのものを個人で所有できるものとして支配することではなく、その流れの中で自分にできることを考え、うまく合わせていくこと。

時間を有効に使えたかどうかだけで、一日の価値を決めなくてもいいと思うと、少し楽になります。

「時間は本当に「使う」ものなのだろうか。」

これからは、時間をどう使うかだけではなく、時間の中でどう生きるかということも考えていきたい…。

でも実際は、目の前の時間との戦いにあたふたしているのですが。