大河ドラマ「真田丸」を観てからというもの、すっかり堺雅人さんにハマっています。
他の出演作も観てみたい!と思って、Amazonプライムで「ジェネラル・ルージュの凱旋」と「ツレがうつになりまして。」を見つけました。
どちらも過去に観たことがあるので内容は把握していたのですが、今回は堺さんのお芝居に注目して再視聴。
「ジェネラル〜」と「ツレが〜」は真逆のキャラクターを演じられているのですが、表情も喋り方もその役にぴったりすぎて、見応えがありました。
そして、この2本の作品を観た後に、堺さんのご著書を拝読。
なんと、本を出版されていたのです。
タイトルは、「文・堺雅人」。連載されていたエッセイを一冊にまとめて2009年に出版されたもの。
ものすごく思慮深く、感じたことをあらゆる角度から考えておられることが伝わってくる文章、興味深く読み進めました。
いくつも書き留めた箇所があるのですが、今日は「ジェネラル・ルージュの凱旋」の撮影時のエピソードについて話してみたいと思います。

映画の撮影が始まる前に、処置室の記録ビデオを見る機会があったそうです。
そこで行われている作業は、映像だけを見ると淡々と「ふつう」に進んでいるような受けた、と書いてありました。
怒号が飛んだり慌てふためいているわけでもなく、特別なことをしているようにも見えない。必要な処置が「ふつう」に行われている。
でも、実際にその場にいる人たちは、何も考えずに作業を進めているわけではないはずで。
ここで、「ふつう」のウラにはものすごいせめぎあいがあるのではないか。と考え方が変わった、と続きます。
例えば、処置室の中ではこんな相反するふたつのチカラがはたらいている。
- 大胆さと慎重さ
- 情熱と平常心
- 決断と躊躇
- 自信と懐疑
どちらか一方が強ければいい、というものではない。
大胆さだけでは危ういし、慎重さだけでは前に進めない。
情熱だけでは冷静さを失うかもしれないし、平常心だけでは乗り越えられないこともある。
相反するように見えるふたつのエネルギーが、静かに拮抗しているのではないか。
そのバランスが取れているからこそ、外からは何事もなく、ふつうに進んでいるように見えるのかもしれない。
そう思って記録ビデオを振り返ると、その「ふつう」の静けさに全身が粟立つような感覚を覚えた、というエピソードでした。

わたしは「ふつう」という言葉を、特別なことが起きていない状態として使うことが多いです。
でも、本当はそうではないのかもしれません。
本人は様々な判断や葛藤があって、それらを調整し続けた結果として、側から見るとようやく「ふつう」に見えているのかも。
何も考えていないから、ふつうなのではなくて、むしろ、いろいろなことを考えたうえで、相反する2つの感情がせめぎ合っている中で均衡が取れている結果、それが表出しないことで「ふつう」に見えている。

医療現場の判断とわが家の日常はまったく同じ土台ではありませんが、外から見える何気なさと、その内側で起きていることは、必ずしも一致しないという点では、共通するものがあるなぁと感じています。
最近、学校への行き渋りが増えている長女。泣きながら登校班の後ろを歩いていく姿に付き添う日もあります。
そんな日が続いていたと思ったら、ケロッと「行ってきまーす!」とふつうに行く日が続いたり。

でも、ふつうに行く日は「行きたくない」という気持ちがなくなったわけではありません。
「行きたくない」と「行こう」という両方の感情が彼女の中でせめぎ合っていて、それでも均衡を保てているから、ふつうに登校できたように見える。
そう考えると、「今日は元気に行ってくれてよかった!」ではなく「今日も頑張って気持ちに折り合いをつけて行ってくれたんやな」と、労いの気持ちというか、尊敬の念が湧いてくるように感じます。

落ち着いている人は、何も悩んでいないわけではない。
迷わず決断する人は、迷いがないわけでもない。
淡々と仕事をこなす人は、何も感じていないわけではない。
外から見える姿だけでは、その人の内側にあるせめぎあいはわからない。
だからこそ、目に見える「ふつう」だけで、その人のことをわかったつもりにならないほうがいいのかもしれないなと、堺さんの文章を読んで感じました。