暮らしの中の地政学、不変的なものを味方につける

最近、地政学に関連した本を2冊読みました。

地政学というのは、地理的な条件から国際関係や政治を考える学問です。

1冊目の本のタイトルは、「あの国の本当の思惑を見抜く 地政学」。海洋国家と大陸国家という切り方から、それぞれの強みと弱み、国際情勢を地政学から考えるという内容です。

2冊目の本のタイトルは、「砂糖の世界史」。砂糖を軸にして、それがどのように世界に広がっていったのか、植民地やプランテーション、労働と話が展開していく内容。わたしは日本史が好きで世界史は選択科目から外していたのですが、苦手意識があっても「砂糖」というひとつの中心軸から話が展開されていくので、とても分かりやすく読むことができました。

この2冊を読んで印象に残った感想を一言で表すると、

人は変わるし、技術も変わる。でも、地理は変わらない。

ということでした。

今の日本や世界情勢を理解するには、歴史を学ぶことが大切とよく見聞きします。

たしかに現在は過去から繋がっているものであって、それを知っているか知っていないかでは理解度が変わってくる。法則とまではいかなくても、一定の傾向は歴史を遡ると見えてくるので、それを今に活かすという考え方。

でも、さらにその前。歴史というのは、地理という不変的なものに基づいているということです。

歴史的に国のトップが変わっても、政治の仕組みが変わっても、技術が進歩しても、その国が置かれている環境・場所は変わりません。

海に囲まれているとか山脈があるとか、隣国と国境を接しているとか。そこで取れる資源も土地によってそれぞれ。

戦争が起こる根本理由の多くは、石油などの資源や領地の奪い合いであって、奪い合う対象は元々地理的に最初から決まっているもの。

そうした変わらない条件の上に、歴史や政治が積み重なっているわけです。

それを知って、ふと思いました。

暮らしの中にも、地理のような「変わらないもの」があるんじゃないか。

そして、もしかすると今のわたしは、変わらないものを必要としているのではないか。

なぜかというと、変わることに疲れているからだと思います。

身の回りに起きることは、とにかく変化のスピードが速いし、情報もどんどん新しくなる。

社会情勢も子どもを取り巻く環境も。AIが登場して、できることが増えると仕事のやり方まで変わっていきます。

新しい家電、新しいサービス、新しい働き方、新しい情報。

昨日まで普通だったものが、今日はもう古い。

「変わらなければ取り残される」という空気もあるから、便利になっているはずなのに、なぜか落ち着かないような。

新しいものを取り入れるたびに、また新しいものが出てきます。

モノや情報だけだなく、社会規範もコロコロ変わりますよね。昨日まで何気なく使っていた言葉が、ある日突然パワハラ認定されたり。「〇〇ハラ」もどんどん増えているわけで、もはや何を口に出すのも怖い。

新しい規範を覚えたと思ったら、また覚え直す。

そんなことを繰り返していると、変わることそのものに疲れてしまっていたりします。

だから「変わらないもの」が心地いいという風に感じ始めているのかもしれません。

話は少し飛びますが、褒め言葉でもあり、時には揶揄の対象にもなり得る「丁寧な暮らし」のようなものに惹かれていく人が増えている理由のひとつは、ここにあるのでは?と。

もちろん、写真映えするからとか、素敵な暮らしに憧れるから、という理由もあるとは思います。

でも、それだけではないのでは?

季節の旬のものを使って自炊したり、夏に梅干しを干したり冬に味噌を仕込んだり。

こういった営みは、昔から現在まで不変です。

今は色々な方法や便利な道具が出てきたりもしますが(味噌づくりに使う大豆をすりつぶすのには、すりこぎでなくフードプロセッサーを使えたり)、基本的に「この時期にはこれをする」という一年の流れは変わりません

そして、これらは人間や自然のリズムから大きく外れないという特徴があるからこそ不変であって、だから安心感を覚える。

季節が来ればその季節のものが育つし、野菜は干せば保存ができて栄養価もアップする。

発酵の原理を利用すれば味噌や塩麹などが作れる。

昔の人たちは、今ほど便利なものを持っていなかったからこそ、自然や身体の変化をよく見ながら暮らしていたのだと思います。

最近、「しあわせは食べて寝て待て」というドラマをきっかけに薬膳に興味を持ち始めました。

薬膳に関する本を読んでいると、まさに自然の流れに沿った人間の身体の変化、その変化に応じた旬の食材選びがなされています。

わたしはまだパラパラ本をめくっている段階で、少しずつ日々の料理に取り入れていっているのですが、これだけでも心が落ち着くのです。

流行に左右されない、昔から不変的でこれからも大きく変わることはないという安心感と心地よさ。

そして、その中から残ってきた方法には、「なぜそうするのか」という理由がある。

いわゆる丁寧な暮らしでイメージされるものの多くは、こういった昔ながらの手法を現代に取り入れている場面ではないかと思います。

料理にしても掃除にしても。

わたし自身は、現代ならではの便利な技術には頼っているし、合理的に効率的に家事をしたいと思っています。

電子レンジも掃除機も使う。でも、合理的と考えて行き着いた中では、炊飯器をやめて鍋でごはんを炊くとか、余った野菜は干して保存する、味噌は自分で作る、みたいなこともしています。

便利なモノや技術が出てきても、自然の流れの中で生活していく心地良さは不変的で、まさに暮らしの中の地政学にあたるもの。

地理は変わらない。

だからこそ、どれだけ政治や技術が変わっても、地理という土台から考えることができる。

暮らしにも、そんな土台があるのではないでしょうか。

身体。時間。自然。食べること。眠ること。人と人との関係。

新しいものを拒む必要はないし、昔の暮らしに戻ればいいという話ではありません。

便利な家電も使うし、スマートフォンも使う。新しい技術に助けてもらう。

その一方で、変わらない不変的な土台があるからこそ、安心して変えていけることもあるのでは。

変化が激しい時代だからこそ、「変わらないもの」が、以前より大きな意味を持つようになっているのではないでしょうか。

地政学の本を読んで、地理という「変わらないもの」の強さを知りました。

そしてそれは、国の話だけではなく、暮らしにも通じる気がしています。

変化の激しい時代だからこそ、変わらないものを知る。

時代に逆らうことではなく、むしろこれからの時代を軽やかに生きるための知恵なのかもしれません。

勝手に「暮らしの地政学」と呼んでみていますが、そんなものを日々の生活の中見つけていけたらと思っています。