最近読んだ本で印象に残った言葉。
「共感ではなく、理解をゴールにする」という考え方です。
これは土門蘭さんの「ほんとうのことを書く練習」という本の中で出てきた言葉。

土門さんが、“死にたいと思ってしまう自分”に対して、最初は共感できなかったらしいんです。
「そんなこと思っちゃだめだ」「もっと前向きにならなきゃ」みたいに、自分で自分を否定してしまっていた。
でも、“共感”しようとするのをやめて“理解”しようとしたら少し楽になった、ということでした。
共感と理解の間には、大きな違いがあることに気が付きました。
共感は自然発生的で、理解は意志によるものだということです。

わたしは相手に共感できないと、「分かり合えない」って思って、すぐに壁をつくってしまいがち。
でも、共感って実はかなり条件が厳しいものだと思います。
過去に同じ経験をしていたり、今置かれている状況が同じだったり、同じ感覚を持っていたり。
だから本当の意味での共感って、実は限られた相手にしかできないのかもしれません。
でも、理解なら努力できる部分があるような。
「自分とは違うけど、この人にはこの人なりの理由があるんだろうな」と想像することはできます。
価値観が違うけれど、関係性は持続する必要がある最たる存在が家族。夫や娘たちとの関係性を想像したときに、理解するには「置き換え」と「遡り」が有効な方法ではないかと考えました。

夫に対して、「なんでそんなにそれが好きなんだろう」って思うことがあっても、自分にも熱中しているものがあるな、と置き換えてみる。
子どもに対してイライラした時は、自分の子ども時代を遡ってみる。
親世代に対しては、その人たちが生きてきた時代背景を想像してみる。
そうすると、完全に共感はできなくても、理解に近づくことはできる気がします。

価値観が違っても、付き合いを続けていかなければいけない人は家族以外にも存在します。
そんな時は、無理に共感しようとせず、置き換えと遡りで理解に振り切ってみるのもひとつかもしれません。