生命力のある生活感

「永い言い訳」という小説を読みました。

物語の中で、母親を失った父子家庭の家を主人公の男性が初めて訪れるシーンがあります。

その家に住む小学生の少年が「散らかってますけど」的なことを言うと、「ぼくの家よりましだよ。散らかる理由にも、生命力があって」と主人公が返します。

物語の本筋とはあまり関係のない場面ではあるのですが、わたしは「散らかる理由にも生命力がある」という表現が、なんかいいなぁと思ったわけです。

「散らかっている」という状態だけを見ると、ネガティブに聞こえます。

でも主人公は、その散らかりを見て、「ここには人が生きている」と感じた。

ランドセルが置きっぱなしなのも、読みかけの本が開いたままなのも、洗濯物がたたまれていないのも、「誰かが今日を一生懸命生きた痕跡」として捉えることもできる。

散らかりは、単なる管理不足ではなく、生活の証拠でもある。

だから「散らかる理由にも生命力がある」という言葉になったんだと思います。

これまでも、わたしは生活感が好きであることは書いてきました。家族の気配を感じられたり、特に子どものものは、その時々のインテリアとして捉えられたり。

生活感を愛でる視点を持つことで、日々の生活を無理せず過ごせるようにもなりました。

そういった好きである理由諸々を一言でまとめると、「生命力が感じられるから」になるのかもしれません。

朝、娘たちが学校や学童へ行ったあとの部屋を見ると、描きかけの絵や折っている途中の折り紙、読みかけの本が広げてあったりします。

「また片づけてない」と思う日もあります。(ほとんど…)

でも見方を変えると、「今日も元気に家を出ていった証拠なんだな」と捉えられることもある。

「整った家がいい」のは間違いないけれど。

「整っていること」が目的になりすぎると、暮らしを管理することばかりに目が向いてしまう。

家は人が生きる場所だから、散らかることもある。

子どもが工作を広げる。

夫が夜飲んだノンアルビールの缶がシンクに残っている。

暑くてパッと脱ぎ捨てたわたしのエプロンが床に落ちてる。

そういう「乱れ」は、暮らしが動いている証でもあります。

片づける目的としては、「散らかっているから」よりも、「また思いきり散らかせる場所をつくるため」と思う方が気楽でいられるような気もします。

「散らかる理由にも生命力がある」

この一文を読んでから、なんでも捉え方次第だなと感じました。

「散らかっている」という事実に対して、「だらしない」という評価を下すのではなく、「ここには人が生活している」「誰かが今日を生きた痕跡がある」という別の見方ができる。

同じ景色でも、どんな言葉を与えるかで、感じ方そのものが変わるのかもしれません。