図書館で借りた「暮らしの手帖2026 4.5月号」の“今日拾った言葉たち”というコーナーに、こんな言葉が載っていました。
「夢を叶えることが素晴らしいことなんだとしたら、叶っていない状態の今はなんなんだろう。夢のための伏線だろうか。人生は全部本線じゃないだろうか。」(山田由梨 作家・演出家・俳優)

ドラマも人生も「伏線」という概念が流行って何年も経つような気がしています。今起こった出来事が何か今後の展開に繋がっているはず、何か意味があるはずー、というような感じで。
それに対して、この言葉に出てくるような「本線」は流行っていない、というか、「本線」という捉え方をしたことがなかったことに気が付きました。
ドラマや映画でも考察系が流行っていて、「伏線回収」が人気です。
あのセリフには意味があった。あの小道具が後につながっていた。みたいな。
そういう仕掛けを見つける楽しさは確かにあります。
でも、ドラマや映画、小説においても、最後の伏線回収までは、割と短期的にたどりつけるもの。
小説、映画なら早くて2時間待てば、リアルタイムで放送されているドラマも3ヶ月待てば最終回。
終わりの時期が分かっているからこそ、心地よく伏線探しを楽しめるのでは。
でも、人生は終わるタイミングも、出来事と出来事の繋がりや意味合いがわかるタイミングも、いつ訪れるのかわかりません。
失敗したら、「この経験にはどんな意味があるんだろう」。誰かと出会ったら、「この出会いは何かの伏線かもしれない」。うまくいかない時期には、「いつか回収されるための期間なんだ」。
そんなふうに、起きた出来事をすぐに物語化しようとしてしまっていては、いつ訪れるか分からない「回収される時期」を待っている状態。
“人生は全部本線だ”と捉える方が、今をないがしろにしなくて済むような気がしています。
もちろん、経験に意味を見出すことは悪いことではありません。
でも、意味を探すことに夢中になるあまり、その時間を味わうことを忘れてしまうこともある気がします。

少し前に読んだ「物語化批判の哲学」という本の中で、“人生を解釈しすぎるから心身に不調が訪れるのではないか”と書かれている箇所がありました。
常に意味を見出して伏線探しをしている=解釈しようとしすぎてしんどくなっていることも、わたし自身あるように感じています。

「今ここ」に集中するマインドフルネスを味わえないことが、現代人の特徴とも言われています。
主には、スマホなどで常になにかと接続されていることが要因なのかもしれませんが、もうひとつの理由として、伏線を探しすぎていることもあるのではないでしょうか。
後から振り返れば、人生の出来事は伏線だったように見えるかもしれません。
でも、その瞬間を生きているときは、ただの毎日です。
料理をしている時間。子どもと笑っている時間。本を読んでいる時間。
それらは何かのために価値があるのではなく、その時間自体に価値がある。
伏線かどうかは後から決まること。

わたし自身が今、能動的に生きることに疲れているというのもあるかもしれませんが、ひとつひとつの出来事の意味を探すことは少し休んで、今日一日を生ききることを大切にしたいと思っています。