生きる理由は、念のため

小川糸さんの「いとしきもの」を読みました。

「自分の人生は、もういつ終わっても後悔することはないだろう。そう思っていた。

この人生で、素晴らしい友人たちに出会うことができたし、愛する家族を得ることもできた。物語を書くことで、多くの読者と深く関わることもできた。酸っぱい経験も甘い経験も、両方とも存分に味わった。だから私は、自分の人生に心から満足している。もう、十分に生きたという自覚がある。」

わたしはまだまだ人生経験が浅いですが、人生が明日終わっても良いという感覚を持つ瞬間が多くあります。

ふたつの理由からそう感じるときがあって、ひとつはネガティブな方。嫌なことや悩み事、自己嫌悪に陥った時。

そしてもうひとつ。小川糸さんの文章にあるのうに、日々に満足しているからという方。やりたいことを毎日やれている感覚があって、だかや明日人生が終わっても悔いはない、という感じです。もちろん娘たちの成長を見守りたいというのは前提としてあるのですが。

毎日やるべきことをやって、家族も元気でいてくれて、好きな本を読んで、家事をして。

ちゃんと“今日”を生きている感覚があるから、もしここで終わっても、後悔は少ないかもしれない、という感じ。

ただ、この感覚って言葉にすると誤解されやすいと思っていて。

贅沢な悩みだと自分でも思うし、あまり他言することではないと言葉にすることを避けてきました。

そんなときに読んだのが、小川糸さんの文章だったのです。

「もう十分に生きたという自覚がある」ということ。

このように、あまり生きることに執着せず淡々と暮らしていると、ふとした瞬間に、「じゃあもう終わってもいいか」という方向に流されそうになることがあります。嫌なことが重なったタイミングでも強くなったり。

なんのために生きるのか、生きる目的は何か、見えなくなる。もちろん生きてるだけでそれでいいというのはわかっているのですが。その正論だけではどうにも気持ちがおさまらないときもある。

そんなときに、最近観たドラマで印象に残ったセリフがありました。

月曜日に放送されている「銀河の一票」というドラマ。

公式サイトの紹介文では、「政界を追い出された主人公が“選挙参謀”として“政治素人のスナックのママ”をスカウトし、都知事選に挑む!異色のバディがお届けする、新たな“選挙エンターテインメント”」

とあります。

第二話では、政治素人のスナックのママ(あかりさん)の過去エピソードが描かれていて、色々と思い悩んだ結果、ビルの上から飛び降りようとするあかりさんを、寸前でとある女性が止めに入ります。これが、後々あかりさんが勤めることになるスナックの当時のママになるのですが。

なんのために生きてるかわからないみたいなことを、止めに入ったママにあかりさんが話すと、ママが「念のためよ」と言います。

「これからどんなことがあるかわからない。でも、もしかしたら万が一良いことがあるかもしれない。その良いことのために、念のために生きておくのよ。」

「念のために生きてる」

という言葉が、わたしにはすごくちょうど良く感じました。

この先、具体的に思い浮かぶのは悩みや心配事ばかり。でも、万が一、すごくいいことに出会えるかもしれない。

まだ読んでいない本に出会うかもしれない。

まだ知らない景色を見るかもしれない。

今回のドラマのように、誰かの言葉に救われる日があるかもしれない。

そう思うと、“強い生きがい”がなくても、とりあえず続けてみようかなと思える気がしました。

わたしは書店ら図書館に行くとすごく落ち着くのですが、「まだ読んでいない本がこんなにある」という感覚があるからかもしれません。

読んでみたいと思える本が、まだたくさん残っている。

それだけで、「もう少し生きてみてもいいか」と思えたり。

生きる理由って、必ずしも大きな夢とか、使命みたいなものじゃなくてもいいのかもしれません。

習慣化の話でも、「やめる理由がないから続ける」ということを意識しているという話をしましたが、わたしには、このぐらいの温度感の方が長く穏やかに生きていける気がしています。