《読書メモ》恋は盲目、愛は受容、信じるは覚悟

今日は、最近読んだ 小説「恋とか愛とかやさしさなら 」から考えた、「信じる」ということについて話したいと思います。

まずはじめに本のご紹介。

著者は一穂ミチさんで、2025年の本屋大賞にノミネートされた恋愛小説です。

【あらすじ(Amazonサイトの本の概要より引用)】

プロポーズの翌日、恋人が盗撮で捕まった。

カメラマンの新夏は啓久と交際5年。東京駅の前でプロポーズしてくれた翌日、啓久が通勤中に女子高生を盗撮したことで、ふたりの関係は一変する。「二度としない」と誓う啓久とやり直せるか、葛藤する新夏。啓久が”出来心”で犯した罪は周囲の人々を巻き込み、思わぬ波紋を巻き起こしていく。

信じるとは、許すとは、愛するとは。

男と女の欲望のブラックボックスに迫る、

著者新境地となる恋愛小説。

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読んでいる間はずっと、「自分が新夏ならどうするか」と問い続けていたような気がします。

でも、最後まで答えは出なかった。

そのぐらい、誰かを信じるという行為は難しいということが、まざまざと思い知らされる時間でした。

相手のことはまだ好きなのに、信じたいのに、信じることができない。まだ一緒にいたいのに、信じられていない自分も苦しい。

タイトルにあるとおり、恋とか愛とかやさしさと比べると、信じるというのは別次元なのかもしれません。

まずは、恋。

恋は盲目というように、好きになった相手の短所ですら、なぜか長所に見えてしまう。

不器用なところは「かわいい」になるし、頑固なところは「芯がある」になる。

恋をしている時って、相手をありのまま見ているようで、実はかなり自分のフィルターがかかっている状態。

でも、長く一緒にいるうちに、恋は愛に変わっていく。

愛になると、相手の短所はもう短所としてちゃんと見えている。

この人はこういうところがある。この癖は苦手だし、この言い方には傷つくこともある。

それでも、そういう部分も含めて一緒にいたいと思う。

恋は短所が見えなくなること。愛は短所が見えてもなお離れないこと。

やさしさも、どちらかというと愛に近い気がします。

相手の欠けているところや、弱いところ、うまくできないところを、責めるのではなく包み込むこと。

完璧じゃない相手を、完璧じゃないまま受け入れること。

恋と愛とやさしさ。

この3つは、形は違っても、どこか地続きというか、通底しているところがあるように感じます。

でも、それらとは全然違う次元にあるのが、「信じる」という行為。

「信じる」という言葉には、よく“一点の曇りもなく”という枕詞がつくように、100%じゃないと「信じている」とは言えないような空気があるように感じます。

半分だけ信じる。少し疑いながら信じる。そういう状態は「信じる」とは呼べない。

だから、信じるって難しい。

裏切られるかもしれない。期待したようにはならないかもしれない。もしかしたら、自分が傷つくかもしれない。

その可能性を知った上で、それでも「わたしは信じる」と決めること。

だから信じるって、相手の問題というより、自分の覚悟に近い。相手を信じると決めた自分を信じきれるかどうか、的な。

Mr.Children の「しるし」の歌詞に、

「半信半疑 傷つかないための予防線」

という言葉があります。

半分だけ信じておけば、もし裏切られても、「やっぱりね」で済ませられる。全部を差し出さなければ、全部は傷つかない。

だから無意識に予防線を張る。

傷つかないように。期待しすぎないように。信じすぎないように。

でも、それは本当の意味で誰かを信じることにはなっていない。

信じるというのは、傷つかない方法ではなくて、傷つく可能性を引き受けることなのかも?

恋や愛ややさしさは、相手との関係の中で育っていくもの。

でも信じるという行為だけは、自分の内側で決めるもの。

相手が信じるに値する人かどうか、ではなくて。

たとえ裏切られるかもしれないとしても、それでもわたしはこの人を信じたいと思えるかどうか。

信じることは、とても怖いし覚悟のいる行為。

でもその怖さを引き受けた時にしか、たどり着けない関係もあるのかもしれないと、この小説を読んで感じました。