《読書メモ》守るためのトリカゴなのか、閉じ込めるためのトリカゴなのか

辻堂ゆめさんの小説『トリカゴ』を読みました。

無戸籍状態の人間をめぐる社会派ミステリー。

辻堂さんの作品は『今日未明』をきっかけに、『答えは市役所3階に』『サクラサク、サクラチル』を読んでいて、今作が4冊目になります。

どの小説にもミステリー要素が含まれているのですが、いずれも謎解きやトリックといったミステリーではなく、勝手な固定観念ゆえに、勝手に思い込んで真実からかけ離れていっているといった、人間の心理的な部分をあぶりだすような内容。まさに社会派。

『トリカゴ』を読んで、閉じ込められた子どもの姿に正直「こわい」と感じてしまいました。

ペットとして飼われていたトリと同じ部屋に閉じ込められた幼い兄妹は、四足歩行をしたり手づかみで食事をしたり、まるで野生児のようだと週刊誌で報道される描写があります。

無戸籍で、社会とつながらず、学校へも行けず、限られた大人の中でしか世界を知らない。

歯磨きの習慣もなかったから、虫歯だらけだったとか。

このトリカゴ事件を背景にしつつ、今の時代に生きる無戸籍の人たちを取り巻く様々な展開が続いていきます。

読み終えてから、当たり前に戸籍があって社会と繋がっているわたしにとっては、こういう状況にある人もいるのだな、という薄い感想を抱いただけだったのですが。

そのあと少し時間を置いた時、ふと「あれは本当に“特別な話”なんだろうか」と思いました。

戸籍の有無に関わらず、家庭という場所は本質的に閉じていて、トリカゴ的要素を持っています。

外からは見えないし、中にいる人にとっては、特に年齢が幼ければ幼いほどに、そこが「世界のすべて=常識」になる。

何が普通で、何が非常識か。

どこまで許されて、どこからがいけないのか。

どんな言葉を使うのが良しとされるのか。

それらはすべて、その家の中で決まっているもので、子どもはそれを疑うことなく受け取ります。

そう考えると、程度の差はあれど、どの家庭にも“トリカゴ性”はある。

でも、それ自体は問題ではなくて、トリカゴには、安心という役割もあります。

外の世界は広くて複雑で、冷たいことも多々。外で色々な刺激や価値観を受け入れつつ、ある程度守られた家庭というトリカゴがあるからこそ、人は安心して育っていくことができる。

帰る場所があって、無条件で受け入れられる場所があること。わたしも娘たちにそんな風に感じてもらえたらと思って、家の雰囲気をつくりたいと思っているのです。

余談ですが、家族内でしか通じない言葉ってありますよね。互いの呼び名だったり、通称名みたいなもの。わが家の場合は、子どもたちが寝る時にパジャマの上から着るスリーパーのことを「ともちゃん」と呼んでいます。(わたしの妹である“ともちゃん”がプレゼントしてくれたものだから)

そういう言葉があると、家族の連帯感というかつながりを自然と感じられたりもします。トリカゴ内での絆を深めるような。

このように、安心して過ごすために、必要な「閉じ」としてトリカゴ要素を保持していきたいところ。

一方で、そのトリカゴに“穴があるかどうか”も意識していきたいというのが、この小説を読んで思ったところです。

学校で友達と話したり、図書館で本を読むこと。先生や親以外の大人と関わること。

そういう小さな接点があるだけで、子どもの中に別の視点が入り込んでくれる。

「うちはこうだけど、よそは違う」という感覚が芽生えることも大切。

この“相対化”があるかどうかで、同じ家庭でも意味が変わるのでは?

子どもを守るためのトリカゴなのか、閉じ込めるためのトリカゴなのか。

その違いは、小さくても外に通じている窓があるか」にあるのではないでしょうか。

イメージでいうと、窓を全部閉め切らずに、ところどころ網戸にして風通しをよくしておく感じ。

社会通念上、守らなければいけないルールなのか、あくまでこの家の中での決め事であって、他の家では違うやり方があるかもしれないものなのか、そこも大人が整理して伝えたい。

家庭という良くも悪くも閉じられた空間に、いかに外とつながる小さな窓をつくっておくか。

守るための壁と、つながるための窓。

その両方があって、はじめて安心できる場所になりえるのかもしれません。