「(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法」という、なんとも興味のそそられるタイトルの本。
これまた、三宅香帆さんが著者です。

もうずっと三宅さんの本を読んでる気がする…!
三宅さんを崇拝している…とかいうのではなく、彼女の読みやすい文体と独特の視点から切り込む批評を読んでいるうちに、わたしも色々考えたくなってくる…という感じ。ありがたや〜。
さて、この本を読んだあとの感想を一言で言うなれば、「本の読み方って自由でいいんだ!」ということ。
元々、はじめに「小説の書き方の本はあるのに、読み方の本がない」と書いてあり、まさにこの本がおもしろく小説を読むための指南書になっているという構造。
色々な視点から「そんなふうにも読めるのか〜」と新たな発見がありつつも、
結局みんな、小説を通して、自分の物語を読んでいる。
とあるように、作り手(作者)の意図は一定無視して、自分の読みたいように解釈すれば良いのである、ということ。
そして受け手(読者)が自由に受け取ることを作り手側も楽しみにしているのでは、と感じました。
ここでもうひとつ、作り手と受け手の話に繋げて思い出したのが、くどうれいんさんの「湯気を食べる」というエッセイ集。

食べることにまつわる話の中で
「作ることよりも食べてくれることのほうが愛だったとちゃんとわかっていただろうか」
という文章がありました。
この言葉にハッとしたわたし。
なにがって、料理は作り手が食べる人の体調や好み、栄養バランスを考えて提供する愛情の総合体のように思えていたのですが、それを受け取って(食べて)もらうことで、作り手も愛情を返してもらっているのということに。
料理は一方的な愛情表現ではなく、双方向のコミュニケーションなんだということ。
作ってくれてありがとうだけじゃなく、食べてくれてありがとうって気持ちも忘れたくない。

そういえば、昨年話題になったドラマ「じゃあ、あんたが作ってみろよ」でも、登場人物が誰かに料理を振る舞うシーンが多かったけれど、よくよく思い出してみると、食べてもらうことで作った側が笑顔になったり嬉しそうな場面が多かったような気がする。
そこには、作ったものを食べてくれる存在がいることへの尊さも感じられるように感じます。
作る側からの一方通行だと思ってて、だから子どもが野菜残したりすると虚しくなったりしてたけど、受け取る側にも自由に食べてほしい。
料理には労力ががかるし、体力も気力も必要だけど、だから偉いとか、愛情いっぱいかけてるとか傲慢にならず、わたしの場合はもっと謙虚でいる必要があるのではないか。(いちいち「おいしい?」とか圧をかけて聞くのやめよう…)
つまり、話を戻すと、「食事」においても「小説」における作者と読者のような、自由な関係性が理想なのかもしれません。
ただ、食事と小説の大きな違いは、受け手がどのように食べて(読んで)いるかが、目の前で見えるところと見えないところ。
見えるからこそ気になるし、見えないなら気にならない。ここには明確な違いがあるから、そう簡単にはいかないけど、イメージとしては自由に作った食事を小説に見立てて、さぁ!あとは好きに食べて(読んで)ね!という気持ちでいたいなぁ。

最近アマプラで観始めたドラマ『ながたんと青と』でも、“食べることは相手を受け入れること”というテーマの回がありました。
戦後数年後、日本に染まりたくなくて日本人の作った料理は口にしないという女性の外国人。
そんな相手に敬意をもって、日本人が作ったデザート。
それを完食してくれたことで、互いの心が通じ始めた場面が心に残りました。
色々と自分の中で繋がって、とりとめもなく書いてみたくなった小説と食に関する備忘録です。