最近、子育てで反省したことについて書いてみたいと思います。
音楽や体育といった実技科目が苦手な長女に対して、わたしと夫の対応が対象的だったのです。
そこから考えたこと、本を通してさらに自分の中に落とし込めたことなど。
ひとりの大人として、親として、「みんな違ってみんないい。得意不得意があっていい。」と心底思っています。
でも、その言葉が力になるのは、子ども本人が「違っていてもいい」と思えるようになってからだ、ということに気が付いたというエピソード。

小学2年生の長女は、音楽会前と運動会前の2週間は、登校前に行き渋りをすることが多くあります。
国語や算数はみんなと同じようにできるのに、ピアニカを吹いたり身体を動かすことは苦手だと自覚している様子。
毎朝「今日音楽2時間もある〜嫌や〜」と不機嫌モード全開。わたしは長女がとてもきれいに字を書くことや算数が得意なことを知っているので、「得意なこと頑張ったらええよ。苦手な科目はとりあえず参加するだけでハナマルやん」みたいな声掛けをしていました。
今の教育でよく言われるような、得意を伸ばす方針。得意なことで自信がつけば、苦手なことも自然と頑張れる的な意味合いで、「苦手なことは無理に頑張らなくていい」というスタンスでいたのです。

ところが、夫の対応は違いました。
夜帰宅した夫に長女の様子を伝えると、「よっしゃ、ボール買いに行って公園で練習しよう!」と言ったのです。
いやいや、苦手って言ってんのに休みの日までやらせんでも…と心の中で思っていたら。
「行く!ボール投げる練習したい!」と目を輝かせている長女。
実際、早速ボールを買って朝の公園で投げる練習も。

ボールを遠くへ投げる身体の使い方のコツを見つけたようで、夜も家で投げるポーズをしていました。
ピアニカが苦手だとなれば、趣味でピアノを弾いている夫が積極的に長女を誘って一緒に弾いてみたり。

大人になると、「苦手なことはほどほどにして、得意なことを伸ばそう」という考え方ができます。
でも、自分の子どもの頃を振り返ると、決してそうではありませんでした。
わたしが小学生の頃、組体操の逆立ちが本当に苦手でした。
5年生の頃から、6年生で逆立ちをしなければならないことが憂鬱で憂鬱で…。
そんなわたしを見て、母は5年生から体操教室に通わせてくれました。
おかげで逆立ちができるようになり、組体操もなんとか乗り切ることができたのです。
今振り返ると、逆立ちができるようになったこと以上に、「みんなと同じようにできた」という安心感が大きかった気がします。
学校生活がずいぶんラクになりました。

だから長女も、「音楽や体育が苦手でもいい」と思っているわけではなく、「みんなと同じくらいできるようになりたい」「でもうまくできない」の葛藤があったのかもしれません。

最近読んだ「ケーキの切れない非行少年たち」と、その続編「どうしても頑張れない人たち」 の中に、
「みんな違ってみんないい、は本人がそう希望している場合のみ」
という言葉がありました。
その言葉を読んで、はっとしました。
大人になった今のわたしは「苦手なら無理にやらなくてもいい」と考えるタイプです。
一方で夫は、「じゃあ一緒にやってみよう」と考えるタイプ。
体育が苦手なら一緒にボール遊びをしたり、音楽が苦手なら一緒にピアノを弾いたり。
わたしはどちらかというと「避ける」方向で考えていましたが、長女は夫と取り組んでいる時の方が楽しそうで、意欲的でした。
違いを認めることと、諦めさせることは違う。
「得意なことを伸ばそう」という言葉も大切だけれど、その前に、「できるようになりたい」という気持ちに寄り添うことも大切なのだ反省しました。
音楽と体育が苦手な長女に、「国語と算数が得意なんやから、そっちを頑張ったらいいよ」「人によって得意不得意は違うから」と励ましのつもりで声をかけていましたが、それは親の価値観を押し付けていたのかもしれません。
いずれはその境地に辿り着くとしても、それは親が押し付けるものではなく、子ども自身が様々な経験や人との関わりを通して身につけていく感覚なのだと気が付いた出来事でした。