消齢化社会を読んで考えた「差」と「異」

今日は、最近読んだ本から考えたこと。

読んだのは「消齢化社会」という本です。博報堂生活総合研究所による新書で、2023年に出版されています。

この本の中で語られているのは、  年齢による違いがどんどん薄くなっている社会、つまり「消齢化」という現象です。

かつては、年齢とライフステージがある程度結びついていました。

例えば  、20代で就職、30歳前後で結婚、40代にかけて子育てをして、  50代で落ち着いてくる。

もちろん全員がそうではないけれど、  なんとなく「年相応のライフステージ」というものがありました。

この本ではそれを  「社会的加齢」と呼んでいます。

年齢を重ねるごとに、社会の中での役割や立場が 少しずつ上がっていくという考え方。

でも今は、その「社会的加齢」が、だんだん消えてきているのではないか、と書かれていました。

例えば今は、  年齢によって聴く音楽が分かれているわけでもないし、着る服もそれほど変わらない。

60代、70代になっても若い頃と同じような感覚で趣味を楽しんでいる人も多いですよね。

つまり、年齢を重ねても気持ちや感覚はあまり変わらない。

年齢とライフステージがあまり紐づかなくなってきている。

それが「消齢化」という現象なんだそうです。

この背景にはいくつか理由が。

まず一つは、能力の面です。

昔は年齢によって「できること」「できないこと」がかなり明確に分かれていました。

でも今は、テクノロジーや環境の変化で年齢に関係なくできることが増えてきました。

例えば妊娠出産だったり、家でも仕事ができるネット環境が整ったり。

そして、二つめは価値観です。

社会の中で「こうするべき」というルールがかなり減りました。

結婚はこの年齢で、こういう働き方をして、こういう人生を送るべきみたいな、そういう「べき」が弱くなってきています。

一昔前は、結婚前に男女が同棲するなんて親から反対されることの方が多かったのではないでしょうか。できちゃった婚なんてもってのほか、みたいな。でも今はわたしの親世代にも一定受け入れられているスタイルになっているように感じます。

最後の三つめが、嗜好です。

人の趣味嗜好、いわゆる「好き」が年齢によって分かれなくなってきた。

若い人と年配の人が同じ音楽を好きだったり、同じ趣味を持っていたりすることも珍しくありません。

つまり、社会全体が年齢ではなく「個人」に向かっている。

そんな変化が起きているようです。

この流れの中では、もしかするとこれから使われなくなる言葉もあるかもしれないという記述もありました。

例えば、「年相応 」「適齢期」「婚期」など、年齢とライフステージを結びつけるような言葉は、もしかするとこれから死語になっていくのでは?ということです。

少し話は逸れますが、この「消齢化」という話を読んでいて、ふと思い出したドラマがあります。

「恋ノチカラ」という2002年に放送されていた、かなり前のドラマなんですが、物語の冒頭は、こんなふうに始まります。

「この世に生まれて30年と6ヶ月19日。もう恋をすることなんて、ないだろうと思っていた」

当時30歳の主人公と、20代前半の同居人の女性が対照的に描かれていて、20代の女性は、まだ恋も仕事もキラキラしている感じ。

一方で30歳の主人公は、恋愛はもう卒業というか、少し落ち着いた、半ば色々諦めた女性として描かれています。

でも今このドラマを思い出すと、当時と今では感覚が違うなと思うわけです。

20代と30歳が、ずいぶん大きな違いとして描かれている。

令和の今の感覚で考えると、その年齢差ってそこまで大きな差を感じない気がします。

むしろ30歳って、まだまだ恋愛の真っ只中という感じもします。

そう考えると、「年齢の感覚」って、ここ20年くらいでもずいぶん変わったのかもしれません。

こういう小さな感覚の変化も、もしかすると「消齢化」の一つの表れなのかなと思いました。

話を戻して。

ここまで消齢化について読んでみて、なるほどなと思う部分も多かったんですが、一つ、気になったこともありました。

それは  「差」と「異」が少し混ざって語られているように感じたことです。

例えば、世代の価値観の差とか、社会の中の役割の差とか。

そういう「差」は、小さくなっていく方が、きっと自由な社会になります。

でも一方で、年齢による身体の変化、特に外見ではなく中の方、内臓なんかはちゃんと年相応に衰えていきやすいわけですよね。それは差ではなくて異。

そういう「異」は、やっぱり存在するし、無理に埋めていくものでもないなと感じた、そのきっかけが、角田光代さんの「わたしたちには物語がある」という本になります。

「消齢化社会」よりもかなり前に読んでいた本なのですが、ここの一文と繋がったのでご紹介します。

「男と女は対等でなければわならないが、しかし平等・対等をあまりに性急に追い求めすぎて、だいじなものまで私たちは捨て去ってしまったのではないかと思うことがある。だいじなものとはつまり、「異」である。差ではなく異はあって当然。だって異性なのだ。」

つまり、差は埋めてもいいけれど、  異は無理に埋めなくてもいい。

男女のジェンダーについて、よく日本では問題視されています。

たしかに不平等という「差」は埋めた方がいい。

でも、身体の違いという「異」は消えるわけではないし、むしろそれは特性な訳です。

今議論しているのは  「差」なのか「異」なのか。

そこを意識して考えることが、大事なんじゃないかなと思いました。

ちなみにこの本の中で、とても面白い表現がありました。

人口減少は、社会の「量」の変化。

そして消齢化は、社会の「質」の変化だと書かれていました。

日本では人口減少というと、どうしてもネガティブに語られることが多いですが、一方で、こうして社会の質が変わってきている部分もある。

だから、量と質の両方の視点から社会を見ることが大事なのかもしれません。

年齢に縛られない社会。

それはきっと自由でもあるけれど、その中で差と異を一緒くたに埋めようとはしない意識も必要なのではないかと感じた一冊でした。