ノスタルジー文化は「報われ消費」のひとつ

少し前に『昭和ノスタルジー解体』という本を読みました。

今日は、そこから考えたことを二点書いてみたいと思います。

ノスタルジーは「報われ消費」なのでは?

まず思ったのは、ノスタルジー文化って、ある意味「報われ消費」なのでは?ということです。

「報われ消費」とは、三宅香帆さんの著書「考察する若者たち」の中で提唱されている概念で、今の若者たちの消費傾向を表す言葉です。

簡単に言えば、お金や時間を使うなら、確実に“何かが得られる”とわかっているものに投資したいという感覚。

たとえば、この動画を見れば〇〇の知識が得られる、このドラマは泣けると分かっている、すでに評価が高い映画だから外さない、とか。

「報われる」と確信できるものにしか、時間やお金を使いたくない。

いま「平成女児ブーム」が来ています。

たまごっち、シール交換、平成っぽいキャラクターグッズ。

当時小学生だったわたしたち世代(いま30代・40代)が、自由に使えるお金を持つようになった。子どもと一緒に楽しめる年齢になった。

これはもちろん大きな理由だと思います。

でも、10代など、平成時代の流行をリアルタイムで知らない世代にも広がっているのはなぜだろうと不思議に感じていました。

ここにこそ、「報われ消費」の構造があるのではないかと、この本を読んで感じました。

その部分を引用します。

「あのころ商品としてヒットしたものは、いずれもその時代をリアルタイムで生きた年代より、ティーンエージャーなどの若い世代に受け入れられたのが特徴です。その理由な、その世代は生まれながらにして身の回りにモノと情報が溢れており、それらを追いかけ流行を形成することに疲弊していることがある。(中略)あのころ商品は、ある時代に一世を風靡したという実績、安定感があるために、消費することに迷いを生じない。これがメリットと感じられた。」

これは昭和ノスタルジーに対して書かれて文書ではありますが、平成ノスタルジーにも同じことが言えそうです。

昔流行ったものには、「大衆に受け入れられた」という実績や「成功した」という前例、「かわいい」「楽しい」と証明済みの歴史がある。

つまり、すでに“正解”とわかっているもの。

だから失敗しない、外さない。投資した分、ちゃんと満足感が返ってくる。

ノスタルジー消費は、報われたい、正解を選びたい、損したくない、最適解がほしいという気持ちと、とても相性が良いのです。

そう考えると、ノスタルジー文化はまさに「報われ消費」のひとつなのではないかと思うのです。

では「令和ノスタルジー」は生まれるのか?

もうひとつ、この本を読んで考えたこと。

それは、令和ノスタルジーは成立するのか? ということです。

昭和ノスタルジー、平成ノスタルジーが成立している理由には、時間的な距離ができたこと、みんなで共有できる「時代の束感」があることだと思います。

昭和といえばこれ。平成といえばあれ。昭和っぽいもの、平成っぽいもの。世代問わず、ある程度の共通認識がある。

でも令和はどうだろう、と少し疑問。

テレビは配信が主流になり、同じ時間にみんなが同じものを見ているわけではありません。おすすめはアルゴリズム次第、知っている有名人が人によって全然違う→同じ時代を生きていても、見ている景色がまったく違うわけです。

昭和や平成のように、「あの時代だったよね」と、ひとつの束として振り返ることはあるのか…?

界隈化が進みすぎて、“みんなの令和”が存在しないのではないか。だから昭和や平成ほど、大きなノスタルジーブームにはならないのではないか。

とはいえ、これは「いま令和を生きている私」の感覚にすぎないのかもしれません。

平成を生きていた頃だって、「たまごっちやシールが懐かしがられる日が来る」なんて思っていませんでした。

令和を振り返るとき、まず思い出されるのはやはりコロナ。

すでに小説にも自然に登場し、歴史の一部になりつつあります。

でも、それ以外の「文化的象徴」は何になるのか?配信文化?短尺動画?推し活の進化?AIとの共存?

何が“令和らしさ”として固定されるのかは、まだわかりません。

最後に…

ノスタルジーはただの懐古ではなく、「安心して報われる消費」の装置なのかもしれない。

そしてノスタルジー懐古が流行る背景には、現代への疲れも垣間見えるような、少し危機感も感じられる一冊でした。