ブログやInstagramは、主に自分の記録用でもあるので、そこそこタイムリーに、起こった出来事や考えたことなんかを載せています。
Instagramは写真メイン、ブログも個人を特定されるような記載は避けて書くようにはしていますが、気ままに投稿しています。
でも、今年から始めた音声配信Voicyでの話は、逆にタイムリー性を求めない方が良いのでは、と思ったり。
その理由はふたつ。
誰でも聴くことのできる無料放送なので、ついうっかり口を滑らせて家族の細かいことを話してしまったとか、後から気付いても修正できないこと。
そしてもうひとつは、わたし自身が音声配信で誰かの日記だけを聴いていてもおもしろいと感じないから。日記めいた話だとしても、起こった出来事メインではなく、そこからどう考えたのかの解釈が聴きたい…!(偉そう)
そんなわけで、わたしは「ここだけの話」を避けるためにタイムリーな話題をすぐに音声では配信しないように意識するようになりました。
つい“ここだけの話なんだけど…”と前おきするとき、多くの場合、タイムリーすぎる話をしているからだと気が付きました。
起きたばかりの出来事は、まだ“点”のまま。
点の状態では、まだ起こった出来事についてしか話せません。
だから、その空白を埋めるように、詳細に語りたくなる。そしてついつい、言わなくてもいいようなこと、プライベートすぎることまで話してしまう。
そしてその詳細こそが、いわゆる“ここだけの話”になりやすい。

ではどうすればよいか。
点と点が自然に繋がって、“線”として語れるようになるまで待つ。ということを意識していきたいと思っています。
この「待つ」という行為が、ちょっとしたネガティブ・ケイパビリティ。(使い慣れない言葉を無理やり使ってみる)
少し前に「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力」という本を読みました。
なんでもすぐに言語化するばかりが良いのではなく、わからないもの、モヤモヤしているけれどつかみきれないものは、結論を急がず、時間に委ねてみる。自分の中で溜めておく練習、みたいなものでしょうか。
なにか一つの出来事(点)があったとして、例えば、そのあとに読んだ本や観たドラマ、他人との会話や他のエピソード、そういった他の点と繋がって線になった瞬間、話せる内容は「出来事そのもの」ではなく「解釈」へと変わる。
解釈がメインになると、どうなるか。
個別的なエピソードは“さらり”でよくなるということです。
プライベートな核心に踏み込まなくても、線として話せるようになるということ。
むしろ、エピソードは“例示”として必要最低限話すとして、中心に置くのは、自分なりの視点や、時間が気付かせてくれた解釈みたいなもの。(わたしは単なる感想に止まりますが)
「ここだけの話」にしないためには、出来事をすぐ言語化しようとばかりしないこと。
このブログは変わらず、日常記録としてタイムリーなことも残していこうと思っていて、記録と記録の点が線として繋がったことをVoicyで話す的な流れが良いのだろうか…と模索中。
難しいなぁ。