「面倒」なことはできても、「虚しい」ことはできない

家事、面倒なことがほとんどです。

料理洗濯は毎日やるとしても、掃除や片付けは今日やらなくても家族の誰もそんなに困りません。

面倒に感じるのになぜやってしまうかというと、そこから得られる結果を自分が求めているから。

例えばトイレ掃除を一日やらなかったぐらいで、そんなに見た目の汚れは変わりません。

でも、その次の日に床を拭くとびっしり埃がついていたり。

明日の自分が嫌な気持ちにならないために今日掃除しておく。面倒だけれど、続けられるのはその合理性のためです。

一方で「虚しい」と感じること。

最近ではこんなことがありました。

夫の朝ごはん準備です。

元々朝はパンとコーヒーで済ましていた夫。

あるとき、「しっかり朝ごはんを食べていこうと思う」と言うので、娘たちの分と合わせて作ることになりました。

ところが、夫は起きてくる時間や食べるタイミングがバラバラ。身支度など出勤準備をひと通りしてから食べることもあれば、起きてしばらくぼーっとしてから食べることも。

こちらとしてはヨーグルトを盛っていても、まだ食べなさそうかなと冷蔵庫に戻したり、そろそろかなとパンを温めたり、少し面倒には感じていました。

それでも健康面的にもちゃんと食べて行ってくれるほうが安心なので、しばらく続けていたのです。

ところが、朝に弱い夫は食べる時間がとれないまま家を出る日があったり、「昨日の夜食べ過ぎたから朝はいいわ」と言う日が続いたり。

誰も食べない朝食を見て、わたしは「面倒」よりも「虚しさ」を感じるようになりました。

面倒なことの先には何か合理的な結果があるものですが、虚しさの先には何もないのです。

そんな虚しい気持ちを夫に伝えて、今の朝ごはんスタイルは「パンだけ切らさないように準備しておく」という形に落ち着きました。

わたしは趣味でパン作りをしているので、夫が食べる分のパンは欠かさないようにしておくだけ。

食べる時は夫が自分でレンチンするのですが、食べない時はそのまま袋に残った状態で次の日に誰かが食べれば良いので、わたしとしても虚しさは解消されたし、夫もどこかで「せっかく準備してもらったし食べなあかん」というプレッシャーから解放されたような気がします。

こんなことで虚しさを感じてしまう自分はちっぽけなのかもしれません。

これから娘たちも思春期に入って見た目のことを気にする年齢になると、ごはんを残したり決まったものしか食べなかったりする時期が来るかもしれない。(実際わたしがそうで母を困らせていました)

そこで虚しさを感じてしまうと関係もギスギスするので、せめて「面倒」に落とし込めるように合理性を見出したいなと思います。

例えば、栄養のとれるヘルシーメニューを考えるチャンスだと捉えたりとか…?残ったおかずは自分のお昼ごはんにできる仕組みにしておくとか…?

虚しさという抽象的な感覚を解消する糸口を探るのは難しいけれど、自分の感情と向き合う中で「面倒」と「虚しい」の間には大きな違いがあると気が付きました。