「表現欲求」と「承認欲求」

前回のブログは、うまく言語化できていないままのひとりごとでした。

そこでも書いたのですが、「ブログが読まれたいのか読まれたくないのかわからない」という心境について、今日はもう少し深掘りしてみたいと思います。

自分が生活の中で取り入れていることや愛用品についての話は、誰かに伝わったらいいな〜という気持ちで書いていることもあるのですが、ほとんどは自分の中での気付きや心の中のモヤモヤ、考えていることをただただ残しているだけ。

詠まれたら恥ずかしい!とまではいかないのですが、もしかしたらこれを読んだ人が不快な気持ちになったり、文章下手だなぁと思われたりしないかな、という気持ちもありながら更新しています。

それなら、わざわざブログに書かなければ良いのでは?と思うのですが、やっぱり続けてしまう。

その理由は、表現欲求と承認欲求があるからなのか?と思います。

わたしは自分のまとまらない考えや気持ちを言語化して表現することによって、ある程度消化できるというか、すっきりします。ブログはいいね数やフォロワー数など、誰かと比較するプラットフォームでもないので、そこを気にせずありのままに表現できるところが好き。写真と文章を好きなようにレイアウトできるので、表現欲求が満たされているのかもしれません。

でも、誰でも目にすることができるブログというSNSで発信していること自体、表現欲求だけではなく承認欲求によるものなのでは?と。

ノートに書き出したりして自己完結でおさめる方法もあるからです。

SNSで発信するのは、やはり承認欲求があるからなのか?

でもブログの場合は、たくさんの人に読まれたいという承認欲求ではなく、共感してくれる数少ない人たちと繋がりたいという承認欲求な気がします。

では、InstagramやYouTubeはどうなのか。

せっかく撮った写真や動画は、やっぱりたくさんの人に観てもらえたら嬉しいし、そう考えると承認欲求強めなのか…?

写真や動画は趣味なので、たとえフォロワー数がゼロになっても、結局続けていると思う。

写真や動画を撮って編集するまでが表現欲求で、SNS投稿するのが承認欲求?

でも、Instagramなら過去写真やキャプションと並ぶことで、YouTubeならチャンネル全体の世界観をつくることで、そこまでできて表現欲求が完結するもの?

それを誰かに見てもらえてこそ、表現欲求は完結するもの?

もはや表現欲求と承認欲求の境目は曖昧なもののような気がしてきました。

長々と書きましたが、表現欲求か承認欲求なのかは、わたしの場合、表現段階やSNSのプラットフォームによってどちらか変わるものではなく、投稿すること自体を楽しめている状態なら表現欲求が承認欲求を上回っていて、他者の評価が気持ちの浮き沈みに影響している状態なら承認欲求が表現欲求を上回っている状態。

前者の状態でいられたら、心地よく、無理なく続けられそう。

後者の状態が長く続くようであれば、一度SNSとの向き合い方や距離感を考え直すべきタイミングだということかもしれません。

今日も長々とひとりごとでした。