ドラマ「Nのために」「夜行観覧車」から考える観覧車的距離感

TVerで配信されている、湊かなえさん原作のドラマ。

2本のドラマを交互に毎日1話ずつ視聴していました。

早く最終回を知りたいような、まだ終わってほしくないような複雑な気持ちで、わたしとしては久しぶりに入り込めるドラマでした。

どちらも2010年代前半に放送されていたのですが、当時わたしは社会人になりたてで仕事や飲み会に忙しかったのか、リアルタイムでは視聴していなかったドラマ。

人間の弱さや脆さ、そして強さを切実に感じられる話で、毎話食い入るように観てしまいました。

どちらも共通点としては、「最後はすっきり全部解決してハッピーエンド!」ではなかったところ。

表向きの事件は解説していても、人間心理の根底にある複雑な部分は解消されていない。その複雑な部分を抱えながら、誰もが生き続けているのだということをまざまざと考えさせられる内容。

そして、どちらのドラマにも殺人などの犯罪が出てくるのですが、完全な悪人は出てこないところも共通点だと感じました。

誰もが犯罪に手を染めたかったわけではない、むしろ大切な人が幸せでいてくれたらそれでいい、そんなそれぞれの思いが複雑に交錯することで、事件に繋がってしまう。

細かい共通点は他にもいくつかあって、話の回によって視点を変えて描かれていくところもそのひとつ。

主役の目線から始まったと思ったら、次の回は別の登場人物の視点から語られます。

そうなることで観ている側は色んな事実が見えてきて、どの人物にも感情移入してしまう。

事件は起こるべくして起こったのだと納得しつつ、歯痒い気持ちにもなります。あの時あの人がこの話を聞いていなかったらとか、ここで2人がすれ違っていなかったらとか。

そして過去と現在が交互に描かれることで、さらに物語に奥行き感が出てどんどん湊かなえワールドに引き込まれていく構造でした。

「夜行観覧車」では、初回と最終回で観覧車という乗り物について同じような表現が出てきます。

「観覧車は不思議な乗り物だ。観覧車はどこにも行けない」

観覧車は動いているけれど実際は同じ場所をぐるぐる回っているだけ。変化がない、ひたすら同じ家族・人間関係が続く閉塞感。

みんなが違う視点(ゴンドラ)から同じ場所をぐるぐる回っていることが表されている。

この2作品を観たあとに視聴したドラマが、アマプラで配信されている「わたしの夫と結婚して」だったのですが(これはこれで湊かなえワールドとは種類の違った面白さがありました)、このドラマの最終回でも、とあるシーンで観覧車に乗る場面が出てきます。

「夜行観覧車」の最終回を観終えたすぐあとだったこともあり、観覧車に過剰反応してしまったわたし。

「わたしの夫と結婚して」の中でも、観覧車はどこへも逃げ場がない象徴として描かれていたような気がします。

「夜行観覧車」最終回での鈴木京香さん(遠藤真弓)のセリフには、「観覧車は、同じところを回っているようでいて、少しずつ景色が変わっていく」というような意味の発言があります。これは、一見変わらないように見える日々の中にも、わずかずつ前進や変化があるという希望も込められています。

遊園地の乗り物、よく思い出してみたら観覧車以外の乗り物もほぼぐるぐる回っているだけ。

メリー語ランド、コーヒーカップ。ジェットコースター系も入口出口は別でもエリアとしては同じところに帰着している。

そんな中で観覧車って絶妙。

動くスピード、隣の箱が見えそうで見えない距離感が人と人の心が掴めそうで掴めないという表れ。

今回の2作品は、このすれ違いや微妙な距離感が悲劇に繋がってしまいましたが、この観覧車の距離感をプラスに捉えられることもあるのではないかと思います。

わたしと娘たちもだんだん距離感できてきました。

ハマってるアニメのことわからないし、参観日では引っ込み思案だとばかり思っていた長女が手を挙げて発言していることに驚かされたり。

夫も本当のところ何考えてるかわからなかったりします。

「私あなたのこと全部わかってるよ観」は距離が近すぎる家族につい出してしまいがちですが、これがそもそもトラブルの元にもなりかねない。

ここでは観覧車的視点を利用できるのでは。

程よい距離感があるから、何考えてるか掴めないからこそ、相手を思いやったり気遣ったりすることに繋がる。

家族や近い距離感の人との観覧車のような人間関係はずっと続いていくので、その距離感にあらがわず、無理にスピードを変えようともせず、淡々と同じリズムで動かし続けられるような努力をしていきたいものです。

長々とドラマの感想にお付き合いくださりありがとうございました。