個性的であろうとすればするほど、大衆化していく現象

最近読んで面白かった本。

「そして、暮らしは共同体になる。」佐々木俊尚

この本の中では、2013年に発表された「ユースモード:自由に関する報告書」からの引用が所々されています。

印象的だった話を挙げてみると、

①大量消費時代の実現とともに、特にファッション領域において多様化と個性化が起きていた

→個性的であることが美徳とされてきた

②ひとつの矛盾が起こる

個性的であろうとすればするほど世の中は個性的な人だらけで逆に目立たなくなっていく

→個性的であることがマス(大衆)になっていく

③今の時代は個性的、独自であることを追い求めるよりも、他の人たちとの関係づくりが中心になっていく

→「誰になるかではなく、誰かと一緒にいることなのだ」

・個性的で独自性のある立派な何者かになる=孤独な自由

・好きな人たちと一緒にいられる自分の実現=孤独ではない自由、普通であることに新しい解放感を感じ、普通であることが新しい他人との繋がりを生み出していく

常に「何者であるか」が求められているように感じる今の時代。それを突き詰めてしまうと、他人との差別化=個性的な何かを持っていないといけないと思い込みがちです。

でも、個性的であろうとすればするほど、本当は好きなことだけど既に多くの人がやっていることだからやめておくとか、そんな現象も起こり得るのでは→フェイクな個性になり得る?と、この本を読んで感じました。

他人と違うことが個性的なのではなく、ただ好きなことやものを好きなままでいられる普通さ。そこから意図せず滲み出る空気のようなものが、最強の個性なのかも。

北欧、暮らしの道具店さんのコンテンツで、土門蘭さんへのインタビュー記事にもこう書いてありました。

「ある時から先生の顔が曇ったんです。『いまの蘭ちゃんの文章は、個性を出そうとしている感じを受ける。個性は消しなさい。消して消して消して、それでも残るのが君の個性なんだよ』と言われました。」

この話も、無理に個性を出そう=他人と差別化しようとして、それが裏目に出てしまった事例のひとつなのかなぁと、佐々木さんの本を読んで気付きました。

好きなことやモノには自然に心が動いて勝手に身体が反応したり、周りがどうかは関係なく夢中になっていたり。

それが、孤独ではなく他者と繋がれる今の時代に合った個性なのかもしれません。