人生は“物語化”しないといけないのか

最近よく見聞きする「ナラティブ」という言葉。

つまり“人生の物語化”について、本を読んで感じたことを記録しておきます。

まず最初に、ナラティブとは何か。

すごくシンプルに言えば、「出来事に意味や筋書きを与えて、“物語として語ること”」。

ただ起きたことを並べるだけじゃなくて、「だから今の自分がある」とか、「この経験にはこういう意味があった」とか、そうやって人生を一つのストーリーとしてまとめていく考え方。

これ自体は、すごく自然なことだし、わたしもナラティブかどうか意識するともせずにやってきています。

人は物語で物事を理解するし、過去に意味を見出すことで前に進めることもあるのでは、と思ったり。

最近ではビジネにおいてもナラティブが重要視されているように感じています。

会社の理念、設立背景、商品が生まれるまでの経緯、そこに関わる人たちのこれまで…みたいな。

ただ少し気になるのは、この「物語化」が少し苛烈になりすぎているのでは、ということ。

人生は語れるものでなければならない、意味づけできなければ価値がない、勝手にそんな空気を感じることがあります。

例えば、いわゆる“下剋上ストーリー”。

歴史を顧みても、昔から下剋上ストーリーはありました。

普通の農民だった豊臣秀吉が織田信長にその機転と行動力を見出されて、どんどん出世していったのは有名な話。

本でいうと「ビリギャル」なんかも下剋上物語です。

勉強が苦手だった子が難関大学に合格する、どん底から成功する、みたいな物語。

ドラマでいうと「ドラゴン桜」も似たような物語。

もちろん、それ自体は本当にすごいことだし、否定するつもりはまったくありません。

でもそれが「語れる物語」として評価されるとき、少しモヤっとした違和感も。

結局、ナラティブ時代を生きるには、下剋上エピソードぐらい強いナラティブが必要なのか…?

この違和感を、哲学的に言語化しているのが「物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために 」(講談社現代新書)です。

この本では、人生を“きれいな物語としてまとめすぎること”への違和感が語られています。

この中で「自己分析という名の強制物語化」という言葉がなかなかインパクトあったのですが。

本来、人生ってもっとバラバラで矛盾していて、意味なんてすぐにはわからないもののはずなのに、それを後からきれいに整えてしまう。

ナラティブで思い出したのが、朝井リョウさんの小説「何様」。

映画化されて有名な「何者」のアナザーストーリー六篇が収録されている小説なのですが、その中のひとつのエピソードとして、就活生に向けてのセミナー講師を仕事としている女性が出てきます。子どもの頃から真面目に道を踏み外すことなく育ってきた彼女はそつなく仕事をこなしているのですが、同じ会社のとある女性に仕事の依頼が偏っていることにモヤモヤしています。そのとある女性は、過去に不良だった時期があったりしたタイプ。簡単にいうと遊んできた。そちら側に依頼が偏っている状況の中、「やっぱりうちの生徒には国立大学のエリートより東郷さんみたいな下剋上系の人の方が合うと思うんですよね」と言われてしまう。

過去の“やんちゃ”を物語として語れる人が評価される一方で、ずっと真面目にやってきた人が「語る物語がない」と感じてしまう構図が描かれています。

ここでもやっぱり、“どれだけ物語化できるか”が価値になっている。

ここでもうひとつ浮かんできたのが、ネガティヴ・ケイパビリティという考え方です。

昨年読んだ本に出てきたこの言葉。

これは、すぐに答えを出したり、意味づけしたりせずに、「わからないまま」「曖昧なまま」持ちこたえる力のこと。

ナラティブが強くなりすぎると、この“わからなさに耐える力”が弱くなってしまう気が。

何か起きたらすぐに、「これはこういう意味があった」「この経験は自分を成長させた」などと、すぐに回収して物語化したくなる。

でも本当は、すぐに意味なんてわからないことの方が多いし、むしろわからないままの時間に価値があったりするのでは。

きれいにまとめすぎないこと。

すぐに意味を求めないこと。

それって、ある意味でネガティヴ・ケイパビリティを持つ、ということなのかもしれません。

ここまで、ナラティブ=人生の物語化が強くなりすぎている、という話をしてきました。

ただ一方で、わたしは「人生はすべて伏線である」という考え方も、すごく好きだったりします。矛盾しているのは承知のうえで…!

今は意味がわからない出来事も、あとから振り返ったときに、「あれがあったから今がある」と思える瞬間って、たしかにあるし、そんな物語を自分のパワーに変えて踏ん張れることもある。

だから、人生を物語として捉えること自体はメリットもある。

ただ、ここで大事なのは、“いつ回収するか”なのかもしれません。

ナラティブが強くなりすぎると、すぐに意味を求めてしまう。

何かが起きた瞬間に、「これはどんな伏線?」「この経験の意味は?」と、即座に伏線回収や意味付け、価値付け、つまり物語化しようとしてしまう。

でも本当は、伏線ってそんなにすぐには回収されないもの。

むしろ、何年も経ってから、やっと「あ、つながった」と思えるものだったりする。

ナラティブと、ネガティヴ・ケイパビリティって、一見すると逆の考え方のようでいて、実は両方必要なのではと思ったり。

伏線は確かにある。でも、回収は急がなくていい。

人生を物語として捉えることと、物語にしきらない余白を残すこと。

その両方を持っている状態が、ちょうどいいのかもしれません。