人間は休み方が下手な理由

正しい休み方、有意義な休み方とは。

先日書店に立ち寄ったとき、「休息」「休み方」に関する本が多いなという印象を受けました。

そもそも休み方に正しいも何もないではないかと思うのですが、本のタイトルになるほどに日本人は休み下手なのかもしれません。

最近「休み方」について聴いたラジオの話と読んだ本の内容が自分の中で繋がったので、今日はその話を書いてみようと思います。

ラジオとは、三宅香帆さんのポッドキャスト番組「視点倉庫」の、とある回。

三宅さんが「休むとサボるの違い」についてお話しされていました。

三宅さん自身はサボる方が休むよりも「次頑張ろう」という気持ちになるそう。

その理由はどこにあるのかというと、少しの罪悪感と背徳感のようなもの、とのことでした。

会社から正式に与えられた休日ではなく、個人の裁量によりサボる。あぁダメだ、明日からまた頑張ろう、的な。

そしてこの内容と繋がった本が「暇と退屈の倫理学」。

この本、個人的に腑に落ちる所が多く、とても読み応えがありました。

特に印象的だったのが、労働史において当初「休みは労働の一部として半強制的に与えられたもの」というところ。

過去からの歴史を辿ると、そもそも人間は労働ばかりして過ごしていた。でも、より生産的にするためには、人間が持つ最大限のパフォーマンスを引き出せるよう、適宜休息を与えることが大切だという認識に途中から変わった。

つまり、休暇中の過ごし方も労働の一部として位置付けて考えられていたということなのです。そして突如休暇を与えられた人間は何をして良いかわからない。でも休まなければならない。休み下手な人間が有意義な余暇を過ごすためのレジャー産業が発達していく…というように本書は進んでいくわけですが。

今でもわたしたちは、月曜日からスムーズに仕事体制に戻れるよう、週末の過ごし方を知らず知らずのうちに調整していることが多いのではないでしょうか。その範囲内での有意義な休息方法を模索している。

余暇を楽しみつつも、再び始まる労働に差し支えがないようなものを探している的な。

今でも労働と労働の間にある休息は、どこか労働の最中のような感覚が残っているのかもしれません。

ここで三宅香帆さんのラジオの話に戻します。

「休むよりサボる方がなんか良い」という感覚は、そもそも労働の一部として与えられた週休二日制度の休暇はどこか窮屈で、「サボる=自分から自主的に取りにいく休暇」の方が労働の範疇から完全解放されているという感覚ゆえなのではないでしょうか。

そこには少しの背徳感や罪悪感が必要なのかも。

サボるとはなかなか勇気がいるにしても、有給休暇という制度は、これに近しいイメージがあります。

子どもが産まれてからは本当に何か用事のある日に大切に有給を使っていましたが、独身の頃は「そろそろなんとなく休もう」ぐらい自由に設定していました。

有給って、合法的に自分で自由に獲得できる休暇ですよね。

平日は普段どおり働いている人が大半、自分も普段なら会社にいる時間に、自分だけゆっくりカフェでコーヒーを飲んでいるという、少しの背徳感。(夜中に食べるパフェみたいな感覚)

余談ですが、わたしは会社員の頃、木曜日によく有給をとっていました。

金曜日や月曜日に取得すると土日と合わせて三連休になるのですが、そうなると休み明けの出勤が辛い。

火曜水曜あたりで休むと週の後半が長い。

木曜だと、あと一日出勤したらまた土日という感じで、気持ちも軽く楽しめるからです。

仕事との兼ね合いを考えて休暇を設定している時点で、もはや有給も労働の一部としてしまっている気がしますが…。

話を戻して、過去の歴史から見ると人間が休み下手なのは当然のことだと思うようになりました。

そして、本来の労働とは無関係の休息を自ら取りにいくことの価値(有給を使ったり、家事を効率的に時短して時間を生み出したり)に気が付いた、ということ。

休暇をどう過ごすか、何をするかよりも、どう休息を取りにいくかで「休んだ」ことに対する感じ方や満足感は変わってくるのかもしれません。

最近わたしが触れたラジオと本を結び付けた、長いひとりごとでした。