日常にある小さな幸せ。
結局、幸せの正体って何だろうと考えたとき、わたしは「ありがたい」とか「尊い」という感情なのではないかと感じています。
例えば、娘2人がケラケラ笑いながら遊んでいる姿を見て「尊い」。
家族みんな元気に予定どおり楽しみにしていたイベントに出掛けられるときに「ありがたい」。
「ありがたい」=「有難い」
有ることが難しいということ。
「尊い」=何かと比較できない絶対的なもの。
失いたくない何かがあるということが、すなわち幸せに繋がっているのかもしれません。

そして「幸せ」に気付くことよりも、「ありがたい」「尊い」に気付く方がハードルが低い=結果的に「幸せ」の幅が増えるのではないかと。
先週、家族全員立て続けに体調を崩していました。
運動会疲れからの発熱?と思っていた次女から始まり、長女、わたしと夫の順に発熱や頭痛、喉の痛みという症状が。
この期間には、ひと足先に回復した次女の就学前健診や遠足があったり。薬を飲みながらなんとか全日程をこなすことができたのですが、この状況で無理に小さな幸せを探そうとしてもなかなか難しかったと思うのです。
でも、わたしはこの体調不良期間にさえ「ありがたいなぁ」と思えてるということに気が付きました。
何に対してのありがたさかというと、家族4人次々ダウンはしたけれど、誰も嘔吐していない!という事実に対して。
数年前に、夫以外の3人が同時に胃腸炎にかかり、それはそれは思い出すのも恐ろしいほどのカオスを経験したことがあります…。
嘔吐を伴う風邪は処理も大変で、飲ませるもの食べるものにも注意を払う必要がありました。
それと比べると、今回娘たちは発熱しているものの食欲はめちゃくちゃあったり、絵本やお絵描きで遊べる程度に元気だったので、それだけでなんとありがたいことか…!と感じていたわけです。

こんな風に、「幸せ」という言葉を「ありがたい」に置き換えてみると、一見「幸せ」には届かないような環境であっても、何かしらプラスな要素に気付くきっかけになるのでは?と。

ここからは斜に構えがちなわたしの余談なのですが、個人的に「幸せ」という言葉に対して若干苦手意識があります。
他人が使っている分には本当に何も思わないのですが、自分が「幸せ」を多用すればするほど、言葉の意味が軽薄になってしまうような感覚がして。
それに比べて「ありがたい」「尊い」は使ってもすり減らない言葉のイメージ。むしろ使えば使うほど、自分以外の他者や環境への感謝と敬意の気持ちが高まるので、わたしは娘たちにもよくこういった言葉を掛けています。
例えば、わたしが大好きな柿。庭にたくさん実ってくれたおかげでたくさん食べれる〜と喜んでいたとき。
長女に「ママよかったなぁ」と言ってもらって、「ほんまに!ありがたいわぁ」と返す感じ。
「幸せ」は主観ですが、「ありがたい」は客観というか。
柿の木を植えてくださっていた前の住人の方への感謝の気持ちと一緒に、自分の嬉しい感情も表せる。
そして自分の嬉しい楽しいプラスな感情は、周りの人や環境によって成り立っているということを、娘たちにも感じ取ってほしい。
わたしの勝手なエゴかもしれませんが、そんな風に感じています。